遅ればせながら、先週末の「オドレら正気か」を
タイムシフトで拝見。
「男女平等はイデオロギー」について、
「だって世の中、平等なんてないでしょ」という
小林先生の一言で、ストンと腑に落ちて
ものすごい納得した。
「人類平等」などという言葉を聞くと、
なんという絵空事を言っているのだろうと思うのに、
「男女平等」と聞くと、心のどこかでかすかに
「そうあってほしい」と思ったりする自分がいる。
これは自分の育ってきた環境からくるのだろう。
「女は男より下なのだ」と親戚から言われ続け、
「笹家の子供は女ばかりで気の毒だ」と
これまた別の親戚から言われ・・・。
私の10代はこうした理不尽さへの怒りで
埋め尽くされていた。
でもまあ、どの家庭だって、多かれ少なかれ
そういう感覚はあっただろうし、
またそういう時代でもあったのだ。
自分のルサンチマンからくる脊髄反射は
相当に注意しなければならない。
平等と公平は違うということも、
公平すらケースバイケースであることも。
森喜朗のラグビー協会に対する発言、
身内を下げる感覚で言ったのかと思うと
本当に気の毒で、申し訳ない気持ちになった。
私は夫が「愚妻」と言っても腹が立たない。
これは私が本当に自分を愚妻だと思うからだ。
でもよくよく掘り下げてみると、
腹が立たないどころか、嬉しかったりする。
なぜなら、「対外的にそう言えるだけの関係性が
夫婦の間にある」ことを示しているからだ。
謙遜の対象であるということは、日本的な感覚で言えば
「より近しい」ことを指す。
好き勝手にやっているヨメでも、そんなふうに
捉えてくれるんだね~と思って、嬉しいのである。
難しいのは、これは対人関係の
距離感の問題でもあるということ。
例1)単なる知り合いに対して「愚妻」と言う→じつに喜ばしい。
(夫はTPOをわきまえた言い方ができる人だということがわかる)
例2)昔からの友人に「愚妻」と言う→非常に喜ばしい。
(あんなヨメもらって大丈夫かと内心思っている夫の友人が安心する)
例3)夫の親に「愚妻」と言う→「お、おい」。
例4)私の親に「愚妻」と言う→(家出に相当する事案)。
これでわかったことがもう一つ。
腐れ縁の友人(♂)が自分のパートナーを卑下するとき、
私はそれを諫めることがある。
「そんな言い方しなさんな」と。
でもそれって、男尊女卑的な感覚がそこにあるから
嫌悪感を抱くのではなかったのだな。
自分ではそう思い込んでいたけれど。
私は本当のところ悔しかったのだ。
自分より近しい存在の人がいること、
私は謙遜表現を使われる立ち位置にあること、
それが水くさい感じで、いら立ちを覚えたのだ。
些細なことだけど、私にとっては結構大きな発見だ。
日本語は、自分の立ち位置や相手との距離感で
親しみの表現が変わってくる。
それを表面だけ切り取って、あるいは額面通りに受け取って
糾弾することの、何と浅はかなことだろう。
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